こんにちは
コロナウイルス感染対策の観点から当面の間
3蜜を防ぐために、
人数制限と時間短縮営業 を併用しながら営業して行きます。
尚、時々 換気の為、窓を開ける事がございます。一時暑くなりますが感染予防にご協力ください。
当店は私の側(厨房)お客様側(窓)と両側から換気を行えますのでアクリル板で遮断する他店よりも換気は非常に良いと思います。
アルコールはお客様が容器に触るのではなく、私がお客様の手にスプレー致しますので、
来店の際は着席いたしましたら私が来るまで手を触れずにお待ち下さい。
9月の営業日は(水、木、金、土、日曜)です。
(※第二、四 月曜日も営業します。祭日の21日、22日は営業)
いずれも11:30~
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尚、感染者増による状況の変化により営業時間等、変更する場合がございます。
(事前のご予約には対応いたします。)
メニューは多少限定したメニューとなります。(食材管理、維持の面から)
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ランチ
水曜、木曜、金曜日11:30~15:30
第二、四、月曜日11:30~15:00
土曜日11:30~
日曜日11:30~
☆夜の御予約につきましては事前に要予約⭐︎
当面の間、(水曜、木曜、金曜、土曜、日曜日)で受付。
(月曜、火曜日は当面の間、不可 ※但し9月21日、22日は可)
当面アルコールはLo20:30迄、21:00 close
同時間帯1組〜2組(6名様迄)※コロナウイルス収束迄の間
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状況の変化により随時変更があります。
御予約、ご要望等はお電話で承ります。ホームページメールフォームからメールでも結構です。
※(火曜は電話に出られない時間帯がございます。
必要事項ご記入の上、ホームページメールフォームからメールでお願い致します。)
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スマートフォンのお客様は左上のメニュータブをクリックして下さい。
営業日カレンダー、メニュー、御予約メール、Instagram等はタブから出てきます。
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10月のお休みは今のところ 5(月)、13(火)、19(月)、27(火)の予定です。
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映画『ジョージアワインの生まれたところ』
が名古屋地区でも伏見ミリオン座にて2020年1月4日から23日迄公開されました。
自然派の造り手達のドキュメンタリー映画です。
伝統製法『クヴェヴリ 甕』を使ったワイン発祥8000年の歴史を今に受け継ぐ
こよなくジョージアを愛するシンプルな生き方の造り手達。
名古屋地区の映画公開記念としましてしばらくの間、
公開記念コースを行っております。記念コースのみの特典あり。
※コロナウィルス収束迄、(以後はジョージア(グルジア)料理コース新設へ移行。)
要予約です。事前のご予約をお願い致します。
また、少しずつですがアラカルトのジョージア(グルジア)料理も改良していきます。
家族でのお食事、仲間内でのパーティー、送別会等には
アラカルトメニューにあります 『タバカ』や『米燻嫩鶏』をメニューに取り入れたお任せコースも良いかと思います。
また単品アラカルトとして、条件付きでお持ち帰りも可です。
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7月18日より『夏〜初秋のロシア&ウズベキスタン ランチ 2020』を行なっております。
9月28日(月)迄
昨年と同様メインはスープラグマンです。ウズベク式手延べ麺は私が延ばしております。
※ラグマン期間中は中華ランチはお時間頂くことがあります。(オペレーション上の都合により提供できない時間帯も御座いますので予めご了承ください。)
新ロシア&ウズベキスタンランチ2020(ドラッグされました)
新、春〜初夏のロシアランチ2020(ドラッグされました) 2
新、春〜初夏のロシアランチ2020(ドラッグされました) 3
ユーラシア食堂さらび では夕方以降の会食承っております。
旧東海道のひっそりとしたプライベートな空間で
美味しい中国料理、ロシア料理、中央アジアの料理をお楽しみ下さい。
小さな食堂ですが造り手と接することのできるお店です。お一人様から20名様位迄で対応しております。
平日は要予約、週末は一応フリーにも対応しておりますが、事前のご予約が望ましいです。
特殊な場所に位置しておりますので集客の見込みの無い日には早めに閉める事があります。また、小さなお店ですのでせっかくお越し頂いてもご予約のお客様でいっぱいで入店出来ない場合もございます。
ご予約の程よろしくお願い致します。
料理内容等はアラカルトから選んで頂いても結構です。
お勧めは お客様のご要望と御予算をお聞きした上で内容を決める
『おまかせコース』プランです。
普段お出ししていない料理は こちらの『おまかせコース』プランからです。
ご要望等お気軽にご相談ください。
ご友人 ご家族でのお食事、ご宴会等、ランチ時間での婦人会等、お待ちしております。
ワイン造り8000年の歴史を持つワイン発祥の地ジョージア(グルジア)
8000年前からの造り方《タンクや樽ではなく、“クヴェヴリ(甕)”》
で造られた自然派の造り手たち、
伝統製法継承者たちの『ジョージア(グルジア)ナチュラルワイン』
も入荷しています。
【クヴェヴリ は世界文化遺産です】
※近日中に新入荷の自然派ジョージアワインがリストに加わります。
(リストの変更、更新)
ジョージア(グルジア)自然派の造り手によるクヴェヴリ醸造ナチュラルワインを
メインに取り揃えておりますが、
10月〜 一部、ジョージアワインメーカー(自然派ではない)ワインも
白と赤1〜2種ご用意致します。
私のお勧めは“自然派”ですが、
よく知られた地区の名を冠するワインも少しだけ用意しようと思います。
白、ツィナンダリ 赤、キンズマラウリ
お客様のご予算、料理の希望内容等、柔軟に対応させて頂きます。
前日、当日のご予約でご利用いただけるコースもございます。
ご依頼、ご相談は店主までお気軽にどうぞ。
ディナーのご案内改訂版(ドラッグされました)・
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☆映画『異端の鳥』のご案内
ナチスのホロコーストを逃れ、田舎に疎開した少年は、預かり先である一人暮らしの老婆が病死した上に
火事で家が焼失、身寄りをなくしてしまう。
一人で旅に出ることを余儀無くされる。
行く先々で彼を ”異物とみなす人間たち” の醜い酷い仕打ちに遭いながらも、
過酷な大自然の中を必死で生き延びようと・・・
少年の強く生き抜く姿と、異物である少年を徹底的に攻撃する“普通の人々”を赤裸々に描いた。
人間の人類の本質を明らかにする。
チェコ、スロバキア、ウクライナ合作映画。
昨年のヴェネツィア映画祭屈指の話題作。
原作者は自身もホロコーストの生き残り、ポーランドの作家 イェジー・コシンスキ。
1933年生まれ ロシア系亡命ユダヤ人とポーランドのユダヤ人の両親。
ナチスドイツ軍ポーランド侵攻後、両親とは別れてしまう。カトリックの洗礼を受けて名をイェジー・コシンスキと名乗り
田舎でナチスの迫害を逃れる。この時のトラウマで5年間、口がきけない状態になってしまう。
戦後、両親とは再会を果たす。
故郷のウッチ大学卒業後ソ連へ留学、後、ワルシャワのポーランド科学アカデミー研究員。
1957年ポーランドを脱出、アルゼンチン、ブラジル後、年の暮れアメリカにほぼ無一文で事実上の亡命。英語は全く喋れない状態で。
翌年幾つものアルバイトと猛勉強で フォード財団の奨学金を得てコロンビア大学で社会科学を専攻。
1965年、原作『ペインティッド・バード 初版邦題:異端の鳥』刊行。(半自伝的な作品と考えられた。いろいろ言われているけれど)
母国ポーランドでは発行禁止になる。
・・中略・・
アメリカで小説家となる。
1991年5月3日マンハッタンの自宅で57歳没(縁起が悪いので没とした。)亡くなる前までCIAとの関係が囁かれていた。
背景からみて察しつくか・・
10月9日〜伏見ミリオン座にて上映
有松絞会館前、ユーラシア食堂さらび店前にございます
『石碑』について。
ユーラシア食堂さらび店前にあります石碑はどのような石碑かご存知でしょうか・・
この石碑は 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人で
幕末、明治維新から昭和の戦前期まで広く影響を与えた『日本外史』(幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書)などの著者、頼山陽(らい さんよう)が1813年11月、有松 井桁屋に一泊することになった時に見た当時の有松の街、絞り染めのすばらしい衣、桶狭間の古戦場、を 頼山陽の感性によて見事に描かれた『過 有松邨』(詩)であります。さらび店内に詩のリーフあります。
歴史ファン必見!
とは言うものの戦前、戦中世代の方々には大変良く知られた人物なのですが、戦後世代以降にはほとんど知る人がいません。
簡単に補足しておきます。
頼山陽(らいさんよう)
1781〜1832 名は襄(のぼる)
主著『日本外史』は
幕末の尊王攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書。
(外史とは民間による歴史書の意)伊藤博文(倒幕派)、近藤勇(佐幕派)の愛読書であったことでも知られる。
ただし江戸幕府の正当性を主張したとする山陽自身の説明があったにも関わらず、
この部分が世に出る事がなかったために幕末において「誤読」され続け、
山陽の随筆意図と無関係な尊王攘夷や
むしろ対極にある討幕論が生み出された。
また山陽の説明(「例言」第四則)がこの世に出た以降も討幕に否定的な歴史書であることが意図的に無視される。
そして明治以降は天皇制の権威付けに
昭和6年以降〜終戦までは思想統制に利用され、
こうした経緯があり戦後GHQの意向により意図的に知られなくなる。
山陽のことが戦後世代にあまり知られていないのは当然である。
では 日本外史の中でもっとも分かりやすい山陽の描写
『敵は本能寺にあり』これでおわかりですな・・・
店主の書評 『頼山陽と戦争国家』著 見延典子
没後の頼山陽の評価の変遷をまとめ上げた貴重な書。
巻末には貴重な関連資料集あり。
そもそも現代日本人のほとんどは頼山陽のことを知らないであろう。
昭和12〜3年生まれ以前の方々には ほぼ100%知られた存在。
何故なら『日本外史』の「桜井駅の訣別」は
当時の教育現場で読み継がれていた。
戦前の国定教科書である。
と云ったところで余程の昭和史通、又は「太平記」(楠正成だー)って分かる歴史通、
又は戦前世代にしか理解して頂けないのだが…
江戸時代後期の 歴史家、思想家、漢詩人
である頼山陽がまとめ上げた民間による日本の武家の歴史。
『日本外史』は平氏から徳川氏まで、
(この時代までの日本のこれまでの歴史をまとめ上げた 日本の歴史 なる書は一般人が目にすることはまだ無かった。
信長公記、甲陽軍鑑、太平記など各々の記録は沢山あるのだが)
これが『日本外史』で当時の老中首座 松平定信
に高く評価されるのだが、
世の中に知られるようになるのは
山陽の死後の話。
時が経ち、多方からこの「日本外史」が出版され(当時は著作権など無い)
幕末の大ベストセラー
(ある部分が削られた=誤読される)になる。=(尊皇攘夷に影響を与える)吉田松陰
幕末期、佐幕派(例として土佐藩主 山内容堂公、 天璋院篤姫、 新選組局長 近藤勇)にも
討幕派(例として吉田松陰 伊藤博文「日本政記」も)にも愛読される。
明治政府以降天皇の権威付けに利用させていく。
何が? どのように?
本書には山陽が『日本外史』『日本政記』(神武天皇に始まる歴代天皇の事績をまとめ上げた書)をまとめ上げるにあたって
山陽が調べた、熟読した山陽以前の過去の書物、参考にしたであろう多くの書物、
研究者が注目する当時の太平記ネタ本=こちらのほうから世に太平記が知れ渡る など紹介しつつ再確認しながら
その後、明治から大正、昭和と時が経つにつれ、どのように曲解されていったか…
※主に南北朝時代→太平記→日本外史と日本政記→南朝正統論→南北朝正潤問題→楠正成→桜井駅の訣別
(つくられる「忠臣」楠正成像)→湊川神社
山陽漢詩の書換え「七生滅賊」が国益に沿うように「七生報国」
頼山陽先生百年祭昭和6年
紹介しつつ再確認し、
昭和初期の事件、出来事と照らし合わせながら
時の政治によって右傾化する頼山陽をじんわりと浮かび上がらせる。
進む軍国化思想統制→頼山陽の神格化→反論
戦後 消える頼山陽=GHQ
また、序盤の頼山陽をとりまく政治世界
では「日本外史引用書目」(259の参考文献)の中で『大日本史』(水戸光圀が編纂に着手)
と『大日本史賛藪』(水戸黄門の格さんの論賛)についての記実あり、山陽に影響を与えたことが分かる。
また水戸藩が編纂をはじめた『大日本史』は完成するのが二百数十年後の1906年。
安積澹泊(格さん 御老公の御前である 頭が高い 控えおろう)の論賛が削除されたり
=後期水戸学派によってつくられた「大義名分論」
削除を企た理由=いわゆる国体の概念。→大正、昭和天皇も認めていた“天皇機関説”の排除。
[本書に出てくる天皇機関説から本書の外へ時計の針を進めると、終戦を境に復権した(ヨハンセン)吉田茂は“天皇機関説事件”で野に下った金森徳次郎に自らの内閣で憲法問題専門の国務大臣ポストに就いていただき帝国憲法改正案(日本側の案とGHQが示した案を元に新たな憲法改正案を練っていた)を“現実の憲法”=今の日本国憲法
に仕立て上げるためにコンビを組むのである。吉田茂は憲法作りに政治生命を懸けた。(幣原や吉田は日本占領に口を挟むことの出来る極東委員会の中には日本の天皇制に批判的な国々から糾弾を受ける可能性があり、(天皇の戦争責任、天皇制の廃止)天皇を守るには時間との戦いであった。マッカーサーと吉田の気が合ったのも大きい。(例、昭和天皇とマッカーサーの写真)) こうした吉田や金森をはじめ、現在の日本国憲法を練って闘った政治家、関係者(例 白洲次郎)、昭和天皇側近たちの動きを無視して「占領軍の作った憲法、押しつけ憲法」と批判して改正を声高にするのは皮相的で批判する側の見識の無さが見て取れる。吉田が権力の座から降りた後、改正論者(例 鳩山一郎、岸信介)の言に反射的に反発する。(「当時の社会党などが主張する護憲派とは異質の政治姿勢であり、系譜であるように思うのである」作家で昭和史研究の保阪正康氏) ]
話を戻すと、『大日本史』に多くの編者が関わったりしたことで、
原点である徳川光圀(御老公様 先の副将軍 水戸光圀公)
の考えから離れていった。
水戸学は 前期水戸学派 後期水戸学派
と分かれ 系列が異なる。
筆者曰く
水戸学の変質にあわせるように、
山陽も道連れにされた観がある。
初志を貫徹しるため山陽は多くの書物を読み、
人の意見に耳を傾けた。
批判もしたが、なるほどと思うものは貪欲に吸収しようとした。
その上で自分なりの独自の視点を身につけ、思考を深めた。
山陽が書いたものが誰かの踏襲であったり
踏襲と踏襲が掛け合わさったりしているように思えるのも、だから必然である。
山陽や著作をありのままに受け入れて読むところから、
山陽の再評価の道は開けていくであろう。